水俣病患者らの訴えを遮断のニュースを知って、感じ考え調べたこと

水俣病に苦しむ方々との対話で取った、環境省の冷たく非人道的な対応に関するニュースがネットで大きな話題になっていた。

▲5分ほどのダイジェスト動画でまとめられているので、ご覧になると分かりやすいと思います。

▼文章で読みたい方はこちらの記事を。

X(Twitter)で見かけた反応集

このニュースを受けて、環境省が、職員がひどすぎるー! といった反応が X 上で散見されていて、

※大前提として、それはそう。表立っては「被害者の声を聞く」といって開いて「皆様の話をうかがえる貴重な会」と述べているにも関わらず、省側の時間都合という理由で強制的に切られたり、「話を簡潔にまとめて」と言い募られるのは不条理だと思います。

だけど、わたしたちはどうだろう?

弱っている人、苦しんでいる人、つらい立場に置かれている人たちが弁明することに対して(聞いていて楽しくない、明るくない、立場が悪いことを、自分がやったことではないが引き受けなくてはいけない対応を)みずから進んで心を開いているだろうかと思う。

  • 心がつらくなるから。自分の役に立つ情報だけ得たいから。
  • 仕事や日々のタスクに追われ、優先したいことがあるから。
  • そんな余裕がある立場じゃないから。
  • 好きなことじゃないから。
  • 楽しくないから。
  • よく分からないから。
  • みんなが無視しているから。
  • たくさん問題がありすぎてキリがないから。
  • 分かりやすい形で教えてくれないから。……

こういう言い訳は、すべて今回の環境省職員と同じ姿勢だよね? と思う。自戒を込めて。


トップの人はさておいても、あの現場にいた環境省の職員たちみんなが、被害者を嫌っているとか、見下している訳ではない、と思う(思いたい……)

彼らの理屈や、あの環境で働いている人たちが持つ精神構造では、ああいった答えが正解になってしまうのではないだろうか。

なら、その歪んでいる、人間に寄り添っていない構造であることを「おかしい」と認識したら、変えていかなくては、動かなくては。自分が出来るところから。

自分の立場は悪くないから、この問題に自分は関係ないから、「なんてひどい職員だ!」「やっぱり日本政府はひどい!」と悪口を言うだけで終止するのは、なにも変えないように思う。加害者側にエネルギーとしては組みしているのではと。

社会にはわたしたちも含まれている。

そしてこんなことを書いているけれど、「最低だ!」と叫んでいる人たちのおかげでポスト数が多くなり、トレンドに上がってきて、多くの人の目に触れることで風化しないで済むメリットもあるだろうとは思う。

今回の報道を観るまで、わたしは「水俣病は認定されて、公害のなかでは進んで開かれ、終わった事件なのだ」と思っていたのだけど、まったくそんなことは無いのだな……被害者みずから声を挙げるしかない立場におられるのだ、と感じた。

コロナワクチン被害者と同じで、まだまだ、世間で認識されていない被害者がたくさんたくさんいらっしゃるのだろうな。


そして、こういった社会問題について、自分が不勉強すぎるので、そんな自分が情報を取りにいっても誤りがちと自己認識していて、

信頼のおけるソースとして、安田菜津紀さんをフォローしている。
今回の問題も、安田さんのポストで知った。

自分にこれを視聴し終えられるだろうかと不安だったけれど、紹介されていた動画も拝聴。安田さんの優しくも力強い声がガイドしてくれるので、落ち着いた状態で聞くことができました。

そして、「からたちのみかん」という形で水俣のリアルを伝え、その思想や在り方も含めて無農薬みかんを作り販売しておられる活動団体があることを知った。

水俣病事件で海を奪われた漁師たちは「陸に上がる」選択を強いられ、生活の糧として甘夏みかんを作り始めました。

今年で水俣病公式確認65年目を迎えたので、あの時からずいぶん時間がたちました。

甘夏みかんの栽培を始めた人の中には、自身が水俣病という病魔に侵されながら、
農協主体による農薬散布はさらに困難を極めました

そんな中
「生きんが為にも農薬は、絶対やめるべきじゃ。被害者が加害者にならない」

と声を上げた、水俣病患者・故杉本雄さん栄子さんと、大澤忠夫が1979年6月に「反農連(反農薬水俣袋地区生産者連合)」を結成。「本来の人間らしい生活をしながら、弱く切り棄てられる生産者同士の絆を深め、水俣のみかんを通じ、全国に水俣病事件を伝え、自らの生活を据え返す契機にしたい」という想いとともに、農薬を使わない甘夏みかんの自主販売を開始しました。

―― 陸にあがる
※強調は筆者による

水俣病被害に関する事柄を🔍して読んでいる最中、泣いてばかりいたのだけど、特に震えたのがこちらの文章だった。

仕事は医療事故の対話による紛争解決を教える仕事である。しかし、医療事故の被害者家族である私は、それだけは苦しくて自分に許しがたいことだった。どうして私たちの人生を無茶苦茶にした 加害者に理解を示し、対話を紡ぎ、赦すようなことができようか。

そのときに、私の脳裏に、20年ほど前に出会った水俣がよぎった。
20歳そこそこの私に、家族を殺され、自らも健康を害された水俣の漁師が、「加害企業チッソは、私自身であった。チッソはこの世で最も赦されなければならない」といった

私はその言葉に魂に、すがるように水俣に移り住んだ。

―― 発起人 石原 明子 – 私達の想い(Our stories)
※強調や改行は筆者による

この境地に至るまでどれほど踏みにじられてきたことかと思うのに、凄い、としか言えない。


農薬、特にグリホサートやラウンドアップについてはオーガニック界隈で叩かれていて、それについて販売会社側はこうした反論を述べているけれど

こうした化学物質に苦しめられ、農薬でも被害を受けた方々のムーブメントを感じると、自分のなかの物差しや目線がまた動くというか、変動するのを感じた。

この後、水俣病被害を起こした会社、チッソの創業者や歴史を辿ってみたり、相思社職員の永野さんが出演しておられるラジオを聴いて、ますます苦しくなっている。

チッソの3大成功は、化学肥料と、プラスチックと、液晶だという。全部が繋がっているなぁ。


そしてここだけで論理を飛躍させたらまずいのだけれど、皇室との繋がりといった権力構造に連なる話も出てきた。だから守られたり、強い立場で動いてきた経緯や働きがあるんだろうか?

もう少し調べてみようと思った。

むごすぎる……。


チッソとなった会社を立ち上げた創業者、野口したがう氏のウィキペディアには、驚くことに水俣病の表記がない。最後の、関連人物の描写にちょろっとだけ触れてあるくらいだ。

野口遵が終生、ライバルとして意識していたという。奇遇にも、野口遵の日本窒素肥料は水俣病、森矗昶の昭和電工は第二水俣病という公害病を引き起こした。

―― 野口遵 – Wikipedia

野口氏の情報がないかと🔍していて、出てきた PDF ファイルがあった。ご自身とご家族が水俣病被害に苦しめられた当事者の方による文章だ。

チッソは一大巨大企業:113年の社歴

チッソは、113年前の1906(M39)に野口遵が起こした「曾木電気」という電力会社から始まり、1908(M41)に余剰電力で化学製品(=肥料)を創る「日本窒素株式会社」を水俣で創業した。当時の水俣の有力者たちが熱烈な誘致運動をしたそうである。

曾木発電所から水俣市までの電柱設置や水俣市内の土地の格安提供、水俣川の水の採取などです。提供された工場用地は、東京ドームの11個分、東京ディズニーランドとほぼ同じである。

また、チッソは、戦前は北朝鮮に大きなダムを複数(12か所の発電所)建設し、その電力で 8 か所ほどの工場を経営していた。労働者は、最盛期は日本人が 2 万人、朝鮮の現地の人が6万人くらいだったようである。チッソは、新興財閥と呼ばれ「朝鮮の野口か野口の朝鮮か」と新聞でも呼ばれる勢いだった。当時は、チッソに技術者として入るのには、東京大学の工学部のトップレベルでないと入れないと言われるくらいだった。チッソの子会社や傘下企業はたくさんあるが、有名企業に旭化成、積水化学、マツダ自動車などがある

戦前(1931.S6)には、昭和天皇がチッソ水俣工場を巡幸されている。また、(1935.S10)には、旭ベンベルグ絹糸延岡工場を巡幸されている。

その巡幸記念碑がチッソ水俣工場敷地内に建っているが、戦時中は、チッソも爆薬や爆弾を創っていたことから米軍の空襲を受け、昭和天皇の巡幸記念碑の鳳凰の右の羽の付け根に米戦闘機の機銃弾の弾痕が今でも残っている。

チッソと国のつながりが戦前からあった

水俣病事件はなぜ起こったのか?

私は、水俣病事件の根本に「差別」があると思う。戦前での北朝鮮での日本人労働者と朝鮮労働者の差別、日本人労働者の中でも、幹部と現場労働者の差別などです。当時のチッソ経営幹部の言葉に「労働者を人と思うな。牛馬と思え。」という言葉がある

敗戦を迎えチッソは、全ての海外資産を失い技術者たちも日本へ帰ってきた。

そして技術者たちは、チッソの本拠地である水俣に集まり戦後の復興に臨んだ。この時不幸だったのは、化学工業の技術は世界有数レベルだが、人や命を大切にしない差別的な意識が強かったことである

―― 水俣病事件 ―人間の尊厳を取り戻す闘いー ~父川本輝夫と家族の物語~  – 水俣市立水俣病資料館 語り部 川本愛一郎
※強調は筆者による

タイトルとURLをコピーしました