コハのつぶやき「2023夏越の大祓から始まったショック体験」

昨年の6月30日――夏越の大祓――は、わたしは3ヶ月限定オンラインコミュニティ「クリスタライズ・シップ」をスタートした日でした。

テーマは〈Cleanup!〉として“浄化”を念頭に置いていたのですが……

わたしのイメージでは、気持ちよく明るく生きていくための、知らずしらずに受けている洗脳を自分で洗浄できるような、ライトな“浄化”のつもりでいました。

コハ
コハ

なのですが……

ひとりだけではなく、複数の人たちとグループとなり行ったことで、思いもよらないほど大きなエネルギーが動いていたのかもしれません。考えてもいなかった、想像をはるかに超えた〈Cleanup!〉になろうとは知る由もなく。


この頃、なんとなく惹かれて使っていたのが、「白」「深い紫」をかけ合わせた、色をモチーフとしたヒーリング系グッズでした。

そのアイテムの説明文によれば、こういった意味合いがあるそうです。

影の中に光を照らす。内なる世界の新たな夜明け。

平静を装いながらもずっと苦しんできたこと、そして自らの苦しみの理由に気づいたことを示します。今、最も深いレベルから苦しみを解放する機会がやってきたのです。

……今までのわたしだったら、まず手に取らないような色の組み合わせでした。頭では不思議だなと感じていたけれど、その後まさか見事の展開となりました。

限定コミュニティ終了日の、強いショック体験から扉が開く

その限定シップが終わった9月30日。
最後の記事を更新し、一緒にシップへ乗船してくださったメンバーさんたちへの感謝をメールでお送りして。ほっと一息、のタイミングで。

驚くような角度から、大きく物事が動いたのでした。

具体的にいうと2年ほど無視され没交渉となっていた人から突然の電話がかかってきたのでした。相手は事前の連絡もなく電話してくるような人ではなく、想定外でした。


結果としてその電話の最中から涙は止まらず、なんとか切り上げて落ち着こうとしても体が震えて止まりませんでした。

眠れない日が続き、とつぜん涙が流れ出すことが頻発して、生理が止まったり、今まで普通にあった生きていくやる気みたいなものが抜け落ちて、うっすらと鬱状態にまで至りました。

どうして“こんなくらいのことで”、と自分にダメ出しをする自分。
でも、現状体に出ている症状から「わたしは相当にダメージを負っているんだなあ」と考える自分。

それから半年間は深い深いところから、とことん自分を幼少期から見つめ直す暗い時間になりました。

周囲や世界にある処方箋と、自分の違和感

わたしの中では、まともな解決策は1つも浮かびませんでした。

周りに相談すると、言われるのは「感情をぶつけること」、専門書に目を通して出てくるアドバイスは「逃げること」に集約されていました。

コハ
コハ

自律神経系で例えるなら、闘争・逃走反応という感じですね。

理屈は分かるし、わたしが第三者だったら、それを選ぶ人たちをねぎらい応援すると思います。

だけど、わたしのなかでどうにもしっくり来ず。

過去にどれほど感情をぶつけても――わたしは怒りを表出するのもされるのも苦手なので、泣いて嫌がるしか出来ないのですが――それを無かったこととして扱われ、長らく無視されてきたから今のわたしがあるのです。

自律神経系で言うなら、フリーズすることでしか、その場をやり過ごしていくしか出来なかった体験を重ねてきているというか。

感情的に、子どものわたしが甘えようと助けて欲しいと訴えても、何も変わらないから、ずっと諦めてきたのです。大人になるしかない、自分の子どもっぽいところを抑圧する選択をしてきたのです。

今さら感情をぶつけたところで、彼らが変わるとは到底思えません。

そして、わたしは今のまま拒絶したり、相手の非をただあげつらうといった行動をしたら、つまり相手から逃げると、きっと自分を恥じるだろうと思いました。

やっと見えてきた、わたしの選びたい3番目の答え

それから数ヶ月経っての今年の春頃に、ようやく自分の取りたいスタンスが明確になってきた。

1.相手が変わることは期待できない。望みもない。

2.しかし、わたしはあなたとの関係をこんな望まぬ状態のままで絶ちたくない。そして、あなたが悪意を持ってわたしに(わたしが傷つくことを)しているとも思えない。

3.だけど、わたしが傷つく、つらいのだといくら伝えても、「それはあなたが弱いからだ」と言われ、ずっと自分を省みてきた。そのスパイラルは抜け出したい。

闘いたい訳でも、関係を閉じたい訳でもない。
相手が変わらないから自分が変わるしかないと進めてきての限界が今にある。

だから、関わりたいという気持ちを持って、だけど、今までの自分を殺すようなやり方は止めたい。1つだけに偏るではなく、どちらも大切にしたいと思うのが、わたしの望みだと。


1.だから嫌だったことを直接言おう。でも、あなたを嫌いではないんだと、大切なんだと伝えよう。

2.悲しかったし、体に異変が起きるほど影響があったと、事実のままで伝えよう。

3.そして、おかしいと思うことは都度、立ち止まって確認するようにしよう。

中でも3番めのことが、わたしはとても不得手で、その場で出来なくなってしまうのです。

その時その時「おかしい」と言うことが出来ない。「おかしいでしょ」と思う感覚を、自分がバカにして矮小化するのです。あとになって落ち着けるひとりきりの空間にならないと、いちじるしくIQが下がってしまう感じというか。

以前つぶやきでも紹介した「反論のヒエラルキー」

本で調べてきた限りでは、これはトラウマ体験によって脳機能が低下する、そうした体験を繰り返してきたせいではないかと推測しているのですが。

トラウマとは「ストレス障害」である

(中略)ストレスという言葉はもともと「ゆがみ」を意味する物理学や工学の言葉で、それを生物学に応用したものです。

(中略)まとめると、「トラウマ≒ストレス障害+ハラスメント→自己の喪失、対人関係の障害、その他」というような図式が成り立ちます。

――『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』みき いちたろう (著)

「こんなことで……」と自分で思いながら、これを書いている。

だって、命に危険が生じるような暴力を振るわれたとか、刺されたとか、食事を与えられなかったとか、そんなことはされていないのに。

でも、こういった文献もあるのですね。

子どもの前で家族が暴言を浴びせ合うことは子どもの脳に深刻なダメージをもたらします。

(中略)トラウマのダメージから脳に器質的な変化が生じます。ある部位は容積が増加し、ある部位は減少し、機能障害を引き起こします。トラウマとは、虐待はもちろんですが、不適切な養育(例えば、目の前で夫婦喧嘩をする、暴言を浴びせるなど)でも引き起こされます。

無関心、過干渉、否定的な言葉をかける、一貫しない態度など、親としての適切さを欠く言動全般が該当します。従来は「夫婦喧嘩くらいどこの家庭でも……」「そんなことで虐待だなんて大げさな……」とされたことがトラウマとなり脳にダメージを与えることがわかってきました。

(中略)脳に最もダメージがあるのは身体的に直接虐待を受けることではなく、実は親同士の喧嘩やDVの目撃+暴言を浴びせられることである、ということがわかっています。言葉のダメージは、私たちが想像する以上に深刻です。

――『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』みき いちたろう (著)

これを読んでくださっている方も、似たような方がいらっしゃるかもしれない。

友人が傷ついていることは大切に寄り添うのに、自分が傷ついたことは「そんなことで傷つくなんて、被害者ぶりたいのか」と問い詰めてしまうような。


わたしが出来ていないのだけど、そういうとき、自分のことを「自分」だと思わずに、「目の前にいる、何の関係もない子ども」として見てあげると良い気がしています。

「俺達/私達は、これ以上にひどいことを言われて/されてきたんだ。このくらいなら、画面しなさい」

こういうことを言う古いリーダーたちがいるけれど、わたしはこういう父性/母性は幼稚だと思う。ほんとうの成熟した大人なら、

「俺達/私達は、これ以上にひどいことを言われて/されてきた。おかしいことだから、次世代には引き継がせないように変えていく」

と言って行動するところだろ、と思う。だから、自分のことも「自分」ではなく、「目の前にいる、何の関係もない子ども」だったとしたら? 次世代に引き継がせないためには、「これはおかしいです」「侵害です」と声を出せるのではないかと。

わたしは感情から、相手を不快にさせる行為が嫌いだ

もし本当のことを伝えた結果、相手が不愉快になるだろうことは、まっすぐに言えるけれど、ただ「わたしが嫌だったから」という理由では、言えないし、言いたくない。

そんなことを相手にぶつける前に、自分を改める方が建設的じゃない? と思ってしまう。何が嫌だったのかを振り返り、自分を改善した方がいい、と思ってしまう。

そういう内的システムは、わたしを鍛えてきてくれたりと良い面もあると思う。

でも、相手の非を1も考えることなく、常に自分だけを罰する思考に偏ったせいで起きているトラブルや似たような望まない決裂があったことも事実で。

友人からは「DVを受けている人みたいだ」と怒られるほどで、彼にも「また死にそうな顔をしてるよ」と言われて、ある人たちとの関係性を閉じてきた経緯がある。

彼らが悪人でもなく、ただ距離感や相性のミスなんだろうと思う。間違いなく、わたしの弱さもあるだろうと思う。わたしのエネルギーや時間は搾取されて振り回されて、ボロボロになっていた。

それを許したのも、見過ごしたのも自分で、それを止めるには「分かってくれるだろう」はもちろん論外としても、「相手が不快にならないように、シンプルに伝える」だけでは足りないらしい。

嫌な顔を見せつけて、不満げに、怒りや恨み節で喋れということか??

……そのくらい、大人だったら分かってくれよと甘えた考えを持ってしまうけれど、これは本当にタイプの違いなんだろう。彼らは「甘え上手」といって、自分のそういう性質を喜ばしいことに捉えていたし、そんな彼らを好む人達がいることも事実なんだから。

コハ
コハ

しかし、アンガーマネジメントというと「いかに感情的に怒らないか」ばかり取り沙汰されていて困る。わたしは感情的になれないで、怒りを出す前に感じることが不得手で困っているのに。ボリュームを減らす方法ではなく、増やす方法だってマネジメントだろ! と思うんですが。

そうした出来事の元型はこの人たちとの関係性にあるのだと思う。

平静を装いながらもずっと苦しんできたこと

とは、わたしの場合このことだったんだろう。


それから、言ってもどうにもならないからと諦めて抑え込んできた怒りや恨みを味わって言葉にした。怖くて、涙が止まらなくて、面と向かっては言えなかった。

自分がおかしいのではないか、こんなことで傷つくのがおかしいかもしれないと疑う。何度も怖くなって、不安になった。自分で自分を馬鹿にして、「こんなことで」と踏みにじる方が楽だ。ずっとやってきたことだから。

自分の感情論ではなく、世界で認定されている人権についての文献や、たくさんの意見でチェックされている信頼度の高い情報を当たるように意識して情報を整理し、自分の認知の歪みを一所懸命に修正しようと心がけた。

国連採択の権利条約を引用したプレゼン資料を作ったり

色んな人の生々しいエピソードを読んでは、何度も号泣した。


蓋を開けて投げかけてみると、自分が想像し、気をかけていたことは全く的外れだった

相手が自分にしたひどい行為は相手も記憶しており、罰が悪いだろうとか。そんなことは言わずとも分かっているだろうと。だって、わたしが相手の立場なら、そうだから。

そんな風に勝手に思っていた、例えば「自分の外見にダメ出しをする物言い、劣っていると言われた発言、説明なしに決めつけられ、黙らされてきた色んなエピソード」を並べた。

相手はまったく、わたしの感情を感知していなかった。
謝罪はなく、まったく罪悪感もなく、そんな気もないのに加害者扱いされてむしろ不愉快だと言うことだった。

感情を持つことが間違いなのか。正しくなければいけないのか。あなたと異なる価値観を持ってはいけないのか。

わたしの見てもらえなかった感情はどこに行けばいいのか。

その事実を見て、また落ち込んだ。

自分の現実に基づかない理想像による期待に傷つき、理想像に在れない自分への罪悪感にさいなまれる、同時に子どもの自分にはそれしか出来なかったことも分かるし、ただ泣くしか出来なかった。

もうこれを大切にするのを思い出すのを引っ張られるのを止めようと思った。

悲しいけれど、彼らはこれを分かってくれる人ではないのだというのが事実だった。

してもらってきたこと、与えてもらったこと、良いこと、楽しいエピソードもある。どれも一面にしか過ぎない。だから黙って我慢してきたけれど、9月30日から向き合うときがきている。


そして今年の6月30日は、夏風邪を引いた。38度まで熱が出て、こんなにたっぷりと風邪を引いたのはいつぶりだろう。10年とか、もっとぶりかもしれない。

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