二千年前から説かれてきた時代精神、女神ディケーのおはなし

2024年、年明けから心がふさぐような出来事やニュースが続いています。

こんなとき、そういったストレッサーに対して、どう接するか。対処対応するのか。これはその人のタイプ・気質性格によりますよね。

コハ
コハ

わたしは、断然、古代からの叡智であるとか、自分よりもはるかに学んだ人々の精神に触れるのが好みです。

そんな自分の性質を占星術的に読み解くなら「射手座」含有成分がとっても強め。かつ、9ハウスに天体持ちでシングルトン、かつカルミネート。金星と土星のコンジャンクション持ちである。といったところでしょうか。

とくに古典は、当たりはずれが少ないと思います

なぜなら古典は、「歴史・哲学・思想・科学・文学など、人間が創造し、探求してきた知の成果や果実が、世界中の人々に読みつがれて今日まで残ってきた書物」だからです。

長い間、マーケットの洗礼を受け、人々に選び続けられてきた古典は、無条件に素晴らしい。長年にわたり多くの人に読み継がれているものには、きわめて普遍的で、物事の本質に触れる何かが書かれているはずです。

―― 『本の「使い方」1万冊を血肉にした方法』出口 治明 (著)

フランスの猛虎といわれたクレマンソー首相はその回想録に

自分は時々つくづくと政治が嫌になることがあるが、その時には自分は必ずギリシャやローマの古典を読む。これが一番自分の役に立つ」と告白しておりますが、道はやはり学ばなければいけない。真理というものは厳粛であります。

――『干支の哲学』安岡正篤 (著)

本は良い。読書は大事。……そうは言っても、読書習慣に縁遠いんだよね。古典も気になるけれど、ハードルが高くって挫折しちゃったんだよね。そんな声を友人たちから聴くことがあります。

そうした心持ちの方に、ちょこっとでも届いたり、新しいドアが開く切っ掛けになればいいな〜と思って、紡いでみました。

以下は、昨年のメルマガ(無料で登録できます)でご紹介した内容です。

コハ
コハ

ギリシャの詩人・ヘシオドスの残した「希望」について触れています。人の汚さ、ずるさ、醜さ、自分もそんな人間の一人であること。どうしようもなく、砕けそうになったときに読んでみてください。

わたしたちは5度めの人類歴史を生きている

さて、古代ギリシャで語られる人類の歴史を5つに分けた区分を、ご存知ですか?

もっとも古くは「黄金の時代」

名前のとおり、素晴らしい、苦しみも争いもなかった時代。聖書でいうと、りんごを食べる前の楽園生活といったイメージでしょうか?

続いて「白銀の時代」

金、銀メダルと来たら銅。ということで、

その次は「青銅の時代」

こうして下っていくにつれ、わたしたち人類は転落していきます。いよいよ、この3期の「青銅時代」では人類は神ゼウスの怒りに触れてしまい、洪水で滅ぼされてしまったとか。

その次は(なぜか)ここだけ金属でなく「英雄の時代」が訪れます。

「英雄の時代」

ここで唯一、人間は「堕落」するのではなく「向上」します。

フランソワ・ルモワンヌ「ヘラクレスの栄光」

この4期こそギリシャ神話で語られる、人間(あるいは半神)「英雄」として活躍、生きていた時代なんだそう。

コハ
コハ

わたしたちの日本でいえば、古事記に出てくる「八百万の神々」〜「アマテラス」〜「実在したか分からないとされている初代天皇」あたりの時分って感じでしょうか

そして、最後の今は「鉄の時代」

何を隠そう、わたしたちはこの「鉄の時代」を生きる人間なのだといいます。

サラッと書いているけれど、つまりここ地球で生きている人間は、5回目に発生した人類だと書かれているのも、発想の転換というか、すごい世界観ですよね。

ではわたしたちが生きる「鉄の時代」は、どんな時代なのでしょう??(ちなみに、これを書いたヘシオドスも、分類としては「鉄の時代」を生きる人間です!)

旧紙幣の肖像画

ヘシオドス 古代ギリシャの詩人。前8世紀末ごろ活躍。ホメロスと並び称される叙事詩人で、農民の日常生活をうたった「仕事と日々」、神々の系譜をうたった「神統記」が代表作。ヘーシオドス。生没年未詳。

―― コトバンク – ヘシオドス

ヘシオドスが語る、わたしたちが生きる「鉄の時代」

鉄の時代

そのあと、私が第五の人々のあいだに生きることをまぬかれていたら! それよりも前に死ぬか、その後に生まれていればよかったのに!

この人間の種族をもゼウスはまたほろぼすにちがいない、びん(注:耳際の毛髪)も白毛の子が生まれるようになったとき。

父は子らと同じからず、仲間同士も同じからず、姉弟も、それまでのつながりを絶つ日が来るにちがいない。

約束を守っても感謝されないようになる、正しいことをしても、善いことをしても。それどころか悪事を働き人を侵す振舞の男が立派と思われる。正邪せいじゃは力で決められる。

だから恥つつしみはもう用はない。
もうその時になってしまえば、広やかな道もつ大地を後に

オリンポスへと、輝く被衣かつぎうるわしい顔を覆って、
人間の世界を見捨て、神々の族のもとへと去っていくに違いない、恥(アイドス)の女神も、とがめ(ネメシス)の女神も。

あとには身をさいなむ苦しみが死にむかう人間どもに残される。
わざわいを遠ざける力はもうあとにない。

コハ
コハ

いや〜、すごいですよね。
古代ギリシャの吟遊詩人いわく、こんな時代を、わたしたちは生きている。

紀元前700年頃から終末思想があったのか〜と思う一方、人間同士の繋がりが失せてしまった世界。

そこでは恥や慎みも意味がなくなり、いよいよ「とがめる神(精神)」でさえも人を見捨て去ってしまう時代だ、と言う指摘。

久保正彰まさあきさんの解説によれば:

外からの危険が遠のき、つっかえ棒を失った「鉄の時代」は、人と人のすきまに生ずる悲惨さによって崩壊に追いこまれようとしている

生まれいずるものは地上の第一日目から白毛頭で、もうみずからの生命をうちから維持するちからも抱負ももっていない

これが鉄の時代が最後にたどりつく終着点である。

コハ
コハ

最近の人間の弱りっぷり・傷みっぷりを思うと、ゆくゆくは「白髪の赤ちゃん」が生まれてくる未来も、有り得そうな感じが否めません……

親子、姉弟、友人たちも、共通の立場を失ってもはや従来の関係を保っていくことができなくなろうとしている。

(中略)その原因をさぐれば、神々の怒りを人は意にも介しなくなったからである。

そのような断絶状態は家のなかだけにとどまらず、社会全体にわたって人と人との信頼関係にまでひびわれを生じている

(中略)(アイドス)の女神やとがめ(ネメシス)の女神が人間世界を見放してしまう、ということは、それまでに守り伝えられてきた人間同士のきずなが、外からの力によってではなく、人間が互いに道義的連帯を解くことによって完全に失われ、人間は社会生活を放棄せざるを得なくなることを意味する。

いわば内面からの崩壊である。

いまのわたしたちや、世界や社会を見ても「ほんと、そうだなー」と感じられる文章でした。


とはいえ、これまでにも、たくさんの時代でさまざまな国で、あまたの読者がそう感じてきたのだろうなとも思うし、何より、二千年も前に、こうしたことが書かれて残っていて。

世界中で認められてるっぽい「古代ギリシャ」が残した思想だというのに、わたしより前の数々の大人たちが読んできたはずなのに、意味ないんかな〜という無力感も覚えてしまい……何よりも、

コハ
コハ

おうおう、ヘシオドスさんよ。
危機感をあおって、それで、あなたは何を言いたいんですか

と思いながら、ページをめくると

ここでその問題にむかってヘシオドス自身が正面から答えようとしている。

かれは「恥」と「とがめ」が去った地上になおも、人間の禍福を支配し道義性をきびしく律する“ちから”が神として存在することをいおうとする。

ほほう! どんな答えなのかしらと、半信半疑で読み進めました。


日本でいえば、ワクチンや主義(人権に対するその人が信じる正義)で、意見が分かれ、共同体が分断状態になってしまったり。政治や宗教の偽りや癒着もいちじるしく、およそ信頼の「し」の字も見受けられない腐敗のおびただしい現代社会。

神々の怒りを人は意にも介しなくなったからである。

そのような断絶状態は家のなかだけにとどまらず、社会全体にわたって人と人との信頼関係にまでひびわれを生じている

ヘシオドスが謡う「鉄の時代」を生きるわたしたちは、何を指針にして生きるのでしょうか。


ヘシオドスさんはここに、なんとも勇敢で力強く、頼もしい正義のヒーロー!! ……を置くのではなく「とっても非力な、弱い女神」を登場させます。

新しき女神ディケー

おまえはディケーに耳を傾けよ、
「横暴(ヒュブリス)」をつのらせてはならぬ。

横暴(ヒュブリス)は弱い人間にとってたえがたい、
立派な人とてもそれをたやすく忍ぶことはかなうまい、

かの女(ディケー)のために重くなる、
「迷妄(アテー)」どもの妨げにあうからだ。

だがそのわきを通るには道がある、
ディケーのものに通ずるよい方の道だ。

ディケーが横暴(ヒュブリス)の上に立つ。
かの女が終りまで道をたどったときには。

辛い目にあって愚かものはやっと悟る。
なぜなら誓(ホルコス)は曲げられた判決(ディケー)のすぐ後を追ってくるからだ。

そのディケーが引き倒されるとき怒号が起こる、
人々が賄賂 わいろをくらってかの女(ディケー)を拉致し、
曲った判決で掟をゆがめるとき。

かの女はそのあとを追う、
人々の町や住家の非をうったえながら。
霧に身をかくし、人々に禍をもたらしながら。

人々がかの女を追いだし、
まっすぐかの女をあがめることがないときに。

ここまでに出てきた「女神ディケー」の情報をまとめると、こんな感じでしょうか。

  1. 「ディケー」の対極には「ヒュブリス(横暴)」がある
    (ちなみに横暴とは、“権力や腕力にまかせて無法・乱暴な行いをすること”)
  2. 「ディケー」は賄賂や曲がった判決で引き倒され、ゆがめられる存在である
  3. 「ディケー」は横暴な扱いを受けた時、その行いを訴え、人々に災いを起こすことができる
  4. 「ヒュブリス」を突き進めると、「ディケー」の力でアテー(迷妄)が生じるので、どんな人も耐えられない
  5. 「ディケー」はわき道だから、分かりづらいし、得が少なさそうに見える
  6. だけどいずれ「ヒュブリス」の上に立つ(勝つ)から、「ディケー」を選ぶといいよ
  7. ちなみに「ディケー」の後をホルコス(誓い)も追ってくるよ
コハ
コハ

なるべく噛み砕いてみました

なんとなく、その女神の印象が、皆さまの心のうちに浮かびあがってきたでしょうか。

英語版 Wikipedia によれば、こういった説明がなされています。

正義の女神であり、道徳の精神です。超越的な普遍的理想としての秩序と公正な判断、または社会的に強制された規範や従来のルールという意味での太古の習慣に基づく秩序と公正な判断。

(中略)彼女は、天秤を持ち、月桂冠をかぶった、若くてほっそりした女性として描かれています。天秤は古代、天秤座の独特のシンボルを表すと考えられていました。

彼女はしばしば、無邪気さと純粋さの女神であるアストライアと関連付けられています。

この他に「レディ・ジャスティス(正義の女神)といった呼び名も持ち、同一視される女神がいるようで、タロットカードの「正義」モチーフでもあるそうな。

正義の女神は、ギリシャの女神ディケーに相当する、ユースティティアまたはユスティティアとして知られる古代ローマ美術の正義の擬人化に由来します。

16世紀以来、正義の女神は目隠しをした姿で描かれることが多くなりました。目隠しはもともと、正義が目の前で行われている不正に対して盲目であることを示すことを目的とした風刺的な追加でしたが、時間の経過とともに再解釈され、現在では公平性、つまり富に関係なく正義が適用されるべきであるという理想を表すものとして理解されています

―― Lady Justice – Wikipedia(自動翻訳)

ギリシャ神話の世界観は「混沌(カオス)」から始まります。訳が分からない、ごちゃまぜ状態から生まれてきた神々の先には

  • 男神 ウラノス、神々の王
  • 女神 ガイア、すべての母 ……という対比があります。

なので、女神であれば「地球」から生まれた、あるいは「地球」にとって必要のある“精神体や概念(目に見えないもの)という感じで、わたしは受け取っています。

コハ
コハ

東洋哲学で言うところの、陰と陽ですね。エネルギーなら破壊と生産。時間なら昼と夜。生命体としては、活動と休息でしょうか。

さて、この女神ディケー。Wikipedia では「正義の女神」とあります。

他のギリシャ語が持つ意味合いでは、「習慣」あるいは「道徳の精神」とも言えるそうです。

コハ
コハ

ちなみに、英語では「Dike」は「(氾濫・逆流などを防ぐための)堤防、土手道、防壁、防御手段、溝、水路」とあり、納得! 先ほどのわき道を流れ、ヒュブリスに立とうとする女神の姿は水路や堤防を想像させるかも〜

他にもヘシオドスは、こんな表現をしています。

人々が他国人にも自国人にも裁き(ディケーたち)を、
しかもまっすぐなのを与え、

そしてディケーのものを越え犯さぬならば
その人々の街は栄えその人々が花とさく。

大地いちめんに子供の養いとなる平和が訪れ、
けっしてかれらには辛い戦争を与えない、遠く見そなわすゼウスは。

決して餓えが訪れることはない、
まっすぐなるディケーをもつ人々には。

破滅も来ない。祭の賑わいにむすばれた農のしごとを人々はわかつ。

Pediment courthouse, Rome, Italy

こうした文章を読むに、

女神ディケーの象徴する精神は、最近の言葉でいうなら「フェアトレードの精神」「誠実な契約」「互いの尊厳を守る約束事」……といったような、人権に関連する女神のように感じられました。
さらに、わたしの言葉に置き換えるなら、そのレイヤーは物質だけではなく、おたがいの「霊的尊厳」「魂の尊厳」を守るためのものと感じます。

だから経済的発展や領土拡大といった物質的レイヤーだけでは、この尊厳は測れないし語れないと思うんです。

また人対人だけではなく、人対「地球」であっても、女神ディケーは存在すると思います。


最後に、なかでも、ジーーーンと来たのがこの言い回しでした。

魚や動物や翼もつ鳥どもならば互いに喰いあうがよい、
かれらのなかにはディケーがないのだから。

だが人間どもにはディケーを下さっている。
何にもまさってよきものを。

なぜなら人がディケーのものをよく見分け、
すすんで人々の集いで話すなら
そのものに広き額のゼウスは仕合せを送る。

「見分け」「すすんで」
「集いで話す」

この能動さが、人間を人たらしめるものなんじゃないかと。

このヘシオドスの描写に感動……いや我ながら、こうした文章に泣けてくる自分を、やや呆れて突き放すような目線で眺めている自分もいるのですが。でも、とても心が明るく励まされる気持ちになりました。

「本」って、つくづく目には見えない強い力を内包したアイテムだなと思います。だから権力者に目をつけられ焼かれたり、禁じられてきた側面があるのだなと。

なんというか、魂が込められた本には「命」が宿っているんですよね。

紡いで、残して、訳してくれた人たちの、奥に共通して存在する何かがある。そうした熱のチェーンに触れて、わたしの命も震えるのだろうな、振動が増すんだろうと思います。

それは表面的な、うわべの、情動をゆさぶるだけのライティング技術では生み出せない、人と人の時代を超えたコミュニケーションだと感じています。


岩波新書『ギリシァ思想の素地 ―ヘシオドスと叙情詩―』久保正彰著より引用しました。


その後もネットサーフィンをしていたら、香田芳樹さん(日本のドイツ文学者、慶應義塾大学教授)の PDFファイルに辿り着きました。

古代ギリシア語には二つの「正義」,Θέμις(Themis)と Δίκη(Dike)があったことが知られている。ともに女神の姿で描かれる正義は母子関係にあり,時系列的にテミスがより古い法(掟)を代表し,ディーケーがより若い正義であることを示している。

(中略)これに対してディーケーは,テミスに代表される古い法体系への抗議であり,新しい秩序の提案である。それゆえ実兄との相続争いが発端になって書かれたヘシオドスの『仕事と日々』が懇願するのはもっぱらディーケーなのである。それは法が顧みられず,公正が損なわれていることへの抗議である

―― 正義の女神は苦しむものに秤を傾ける

コハ
コハ

ますます深くうなずいてしまった……!

ほんとに古代ギリシャ、興味深いです。ローマはもちろん、エジプト神話との連結や対照も、時代がくだってのキリスト教への混入など、すごく気になります……!(遠い遠い話みたいで、実は現代を生きるわたしたちの深層心理や精神に紐づいている構造があるなと思う)

今後また、ブログ記事やメールマガジンなどで好きに述べていこうと思います😊

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