あらゆる不幸を生み出す境界と「インテグラル理論」の効用

前の記事で、ケン・ウィルバー氏をご紹介しました。というのも、自分自身が、

🪞

長らく周囲を観察しながら思っていた気持ち悪さ
一見とても美しく「愛がある」という人達の後ろ暗さ対しての解が得られ
スルスルと言語化されて開いていくような感覚

💡

「こういうものを求めていたの! ここが解せなかったんだ」とか
「そうなの、それを言葉にしたくて、でも出来なかったのーー!」みたいな
中学生の頃かのような勢いある心、オンパレード

……といった体験をしたからです、というのは既に述べました。

そして、そこから起きた心の動きとして


わたしと同じように、興味が向かない方にこそ触れてみてほしいなぁ。

コハ
コハ

だけど……

堅いし難解ふうで、きっと多くの人に「取っ付きづらいな」と感じさせ、すぐに離脱されるだろうな……

小難しい話は置いといて、まずはユニークすぎるケン・ウィルバーという人間から知ってもらおう!

――ということで、彼の半生や起こった価値観の強烈な転換、彼を襲った悲劇、……つまりは人間的な魅力を書き連ねました😇

読んでね!

わたしが思うにの勝手な「インテグラル理論」概要

続いては、
「どんな内容によって快い衝撃を受けたのか」
「どこがコハ(筆者)には好ましかったの?」
ということを書いていきます📝

ただ、先に細かいところだけ進めると誤解を生みかねませんので、

まずは「インテグラル理論」ってなんなのか? それで得られるものは? どうして彼はそんなものを取り組もうとしたんだろう?

といった、全体の背景や概要を、カンタンに整理したいと思います。

あくまで、わたし個人の受け取った印象や洞察したものを書いていきます。日本公式とは見解がズレているところも多いかもしれませんのでご注意ください。

「万物の理論なんて不可能」に決まってる by ケン・ウィルバー

まず、大前提として。

彼の主テーマになっている「インテグラル理論」は、原題では「A Theory of Everything」となっています。

コハ
コハ

以前の訳では、“Everything”“万物”と訳したので、『万物の理論』になっていたんですね。表紙をみても、記載されている英語タイトルはどちらも同じなのが確認できると思います。

もうちょっと、わたしみたいな一般人に印象が伝わりやすくなるかな?? と思う表現にすると

「森羅万象、あらゆるすべてを包括する理論に挑戦」

みたいなイメージです。

フィクション小説とか、なろう系主人公ならまだしも(?)……極端に言えば、正気の沙汰じゃない挑戦だと思います。

どれだけのことを広く、そして深く、知らなくちゃいかんのよ。どれほど調べてもキリがないでしょうが! っていう。

ほんものの万物の理論というものがありうるのだろうか?
こうした問いを発すること自体、意味があるのだろうか?
で、私たちはどこからはじめるべきなのか?

「統合的なヴィジョン」または「ほんものの万物の理論」は、自己、文化、そして自然の中で現われているままの、物質、身体、心、魂、霊性を包括することを試みる。

――『万物の理論』ケン・ウィルバー (著), 岡野 守也 (翻訳)

不可能でもやる。なぜなら…… by ケン・ウィルバー

そして、そもそもはそんなの、ムリだよねってことを御本人も述べられています✋

もちろん、そうしたあらゆる試みがいろいろなかたちで失敗してきた歴史がある

失敗してきたいろいろなかたちでは、不当な一般化が行なわれ、専門家が正気を失って、たいていホリスティック(全体的)に包括すると表明されていたにもかかわらず、その実現には失敗してきたのである。

――『万物の理論』ケン・ウィルバー (著), 岡野 守也 (翻訳)

専門家が正気を失って不当な一般化が行われる事例

コハ
コハ

例えばセラピー、食事療法とか、健康界隈で見聞きする「ホリスティック」という言葉で勝手に解釈してみます。

わたしは「ホリスティック」というのは、部分に偏ることなく眺める姿勢であるとか、心・魂・社会や生活全般まで含める、全体を見る働きを指している言葉だと捉えています。

ところが「ホリスティック」という名を冠する人たちの一部で、ネット上で悪目立ちする人たちがいます。

例えば西洋医療に対する憎悪を露わにしたり、元を辿れば自分の選択が不在なまま、良さそうなものを買ってきたことへの後悔や恨みつらみを国や病院にぶつけたり。

コハ
コハ

なんらかの薬害や健康被害にあった人が、販売者や加害者に対して抗議するのは正当です。

ですが、なんの関連性もない人たちまでを巻き込んで「医者はひどいやつだ」「日本は腐ってる」と言い始め、脅かすようなフレーズで自分のフォロワーを増やすのは不当だと、わたしは感じます。

薬・手術・ワクチン・栄養学に対する無根拠の(自分たちの範囲で観測した臨床のみとか、たまたま手に取った「医師」「専門家」が言う情報を盲目的に信じこんでいるだけとか)決めつけを断言して流布したり。

ときには自分と違う選択をする人たちのことを見下しバカにして中傷する様子……などからは、みじんも“ホリスティックさ”を感じられませんよね😢

それは、人間を考えるに古代から変わらずにあったものだと想像します。

だから怪しい民間療法とか、呪術的なまじないに対して、わたしたちは興味が向いても抵抗感を覚えるし、社会や政府は忌避感を持つのでしょう。だって被害が出かねないからです。誰かが命を失うことになりかねず、野放しにしたら危険だから、です。

肺結核に石油を飲む、イボをとるのに石の穴に溜った水をつけると石のくぼみとイボが相殺されて治癒する、ものもらいに藁の芯を目の前で結んで燃やす、喉に刺した魚の骨を除くのに魚網を頭から被る

(中略)これらには科学的根拠がないものが多いが、前述のようにシャーマンや祈祷師が巫医としての活動は長い歴史を有している

(中略)健康な時は「なんで、あんなものに頼るのか」と思う民間療法は「騙されやすい一部の人が手を出すもの」ではなく、がん患者の約半数が手を出してしまっている

金銭が要求される民間療法は命の瀬戸際にワラにもすがる思いでいる患者や家族から高いお金をむしり取ろうとするモノである。

―― Wikipedia – 民間療法

お金になるんですよね。

つくづく不可思議というかイヤなのですけど、

意識高い感じの食生活とかオーガニック思想を持っていたり、瞑想に取り組んだりしていた善意スタートっぽい秘密結社とか宗教団体がカルト化していって集団自殺したりテロ行為に及んでしまう事例は世界中にごまんとあります。

科学史家のマイケル・シャーマーは宗教団体に限定されない以下のカルトの定義を紹介した。

  • 集団の指導者に対する崇拝
    – 聖人あるいは神格に向けられるものとさして変わらない賛美
  • 指導者の無謬性
    – 絶対に間違いを犯さないという確信
  • 指導者の知識の広さ
    – 哲学的な事柄から日常の些細なことまで指導者の信条や口にすることはなんでも無条件に受けいれる
  • 説得のテクニック
    – 新たな信徒を獲得し、現状の信仰心を補強するために、寛大なものから威圧的なものまで手段はさまざま
  • 秘密の計画
    – 集団は絶対的な真理と道徳観を持ち、信仰の真の目的と計画が曖昧であり、新規入信者や一般大衆には明確に提示されていない
  • 欺瞞
    – 入信者や信徒は、指導者や集団の中枢部に関してすべてを知らされるわけではなく、また大きな混乱を招くような不備や厄介事に発展しそうな事件、あるいは状況は隠蔽されている
  • 金銭及び性的な利用
    – 金銭およびそのほかの資産を差し出すよう説得される。指導者には一人かそれ以上の信徒との性的関係が許されている
  • 絶対的な真理
    – さまざまなテーマにおいて、指導者、あるいは集団が見出した究極の知識に対する自信
  • 絶対的な道徳観
    – 指導者、あるいは集団が確立した、組織の内外を問わず等しく当てはまる、思考および行動に関する善悪の基準への盲信。その道徳の基準にきちんと従えば、組織の一員としていられるが、そうでない者は破門されるか罰せられる

―― Wikipedia – カルト

コハ
コハ

最近でいえば、反ワクチン的な思想で過激に活動・発信する団体は、ほとんど合致しているのじゃないでしょうか。

あまり詳細を書きたくないのですが、こういった歴史を積み重ねてきているなら、そりゃあ危険視されるよな、不安視されるよねと思いました。


そこまで極端に走らずとも、例えば平安時代に残っている文献で、当時の医療現場が見受けられるそうですが

目を患った男が治療を受けている図で、医療行為を絵画化した貴重な史料である。(中略)詞書きから、次第に見えなくなったという詞書きから、白内障と考えられる

(中略)治療したのは偽医者らしく、目はつぶれてしまったという。この時代、こうした民間治療師が横行していたことが知られている。

そうした反省や、不満によって、科学的アプローチを世界中が求めた経緯があるはずなのです。

時代はさらに遡りますが、例えば聖徳太子が信奉した仏教、建てたという寺院

日本史を習った頃の自分は、

コハ
コハ

なに言うてますの、天皇や疫病のために大仏建てても、なにも治る訳がないじゃないですか

と冷めた目線で聞いて弾いていたのですが、それはあくまで現代まで残っている「表面上」のもので、

彼らがよすがとしていたのは、当時の世界最先端・最高峰の医術を誇った中国からの教えだったんだろうと思うのです。訳のわからない「それっぽくて」民衆が信じ込んでしまう怪しい医療ではなく。

その末尾にあるのが大仏建立だったのではないか。
つまり民衆にくどくどと説明していられないから、分かりやすく大きな崇める対象を作ることで精神的安定剤としたのでは?(これは勝手な憶測です)

呪術的な、原始的な医療が、まだまだ色濃く残っていたであろう飛鳥時代。スピリチュアル真っ盛りですよ。平安時代なら怨霊が出てきて病にしたり、命を奪われたりしているくらい。

そうした日本で、早すぎるほど理知的かつ現実的に、

確実な改善が見込める薬の整備、それを適切に扱えるプロフェッショナルの育成、そのために必要な法令を敷く……そうした伝令や教育に使えると思った宗教=民衆とのコミュニケーションに使える道具が、仏教だったのではないかしら。

そうした新しく強いビジョンを持ち動けるリーダーシップに裏打ちされた、生活の改善こそが民衆に称えられたのじゃないか。例えば病が治ることとか、今まで見捨てられていた人たちが守られるようになったとか。

聖徳太子が四天王寺を建てられるにあたって、「四箇院の制」をとられたことが『四天王寺縁起』に示されています。

四箇院とは、敬田院、施薬院、療病院、悲田院の4つのことで、敬田院は寺院そのものであり、施薬院療病院薬局・病院にあたり、悲田院病者や身寄りのない老人などのための社会福祉施設にあたります。

―― 総本山 四天王寺

飛鳥時代~ 官営医療の時代
8世紀に入り、律令国家の歩みを始めた日本は、中国(唐)に倣って、大宝律令に医疾令いしつれいを定め、官営の医療制度を整備した。

中央には、医療を担当する「典薬寮(てんやくりょう/くすりのつかさ)」が設けられ、医師の教育や任用が行われた。医師の卵である医生は、典薬寮において、渡来人による指導を受けたり、中国の医書を学んだりして、医術を習得していった。

―― 日本の医療・病気の歴史

コハ
コハ

なんでこうした取り組みが行われたかって、医療と称して偽医療を行う人達が多くいて、損害があったからではないでしょうか。もちろん他にも、政治的な理由、思惑もあったことでしょうけれど……

現代に帰りますと、

わたしたちは目覚めたとか(自分と同じ情報を手にしない彼らは目覚めていない)、この民間療法は素晴らしい(自分と違う選択をする彼らは誤っている)と謳うのに言動には幼稚さばかりが漂い、不満や鬱屈を溜め込んだフォロワーたちと徒党を組んでいく感じ。「これは間違いない」「みんなこれを知るべき」と無闇に崇めていく様子。

……「不当な一般化」は、とっても! はびこっていると思うんです。それが行き過ぎ、盲目的に傾倒している人たちの病んだ精神状態を指して、社会は陰謀論者と呼ぶのでしょう。

もしそうした精神状態にあるのに自ら“ホリスティック”を掲げるならば、いやいや、それは嘘だろうと。あなたたち飛鳥時代に退化しているじゃないと。

あなたたちが忌み嫌ってきた独りよがりの姿勢を、あなたたちも世界の半分に対して行っている。

コハ
コハ

こうした意識の反転というか、転落についても、インテグラル理論では整理できるんです。

なんらか伝えたいことが伝わっていると嬉しいのですが。

つまり使うツールとか、方法で観るのではなく。

その教祖や代表が取る言動の内側に常に動いている原動力は何なのか。そこにいる人たちの意識状態がどこにあるかで、どんなに優れた言説もメソッドもセラピーも、退化し破壊的・暴力的な形になりうるよね、と言いたいのです。

別にそれが大好きならいいんだけど。どこかで違和感だったり、ゾッとしたり、おかしいなと思っている人には立ち止まってみてほしいのです。

「インテグラル理論」はそうしたときにも役立ってくれると感じています。


……盛大に脱線してしまったので、話を「インテグラル理論」に戻しますね😇

なぜそういう不可能なことを試みるのか。

それは、全体性の小さな一片でもまったくないよりはましであり、統合的なヴィジョンは、細切れの代用品よりはかなり全体性を示してくれると私は信じているからである。

(中略)以下の頁で述べる考えは、単なる示唆として使っていただきたい。

自分にとって意味があるかどうか、それを改善できるかどうか、いずれにせよ、あなた自身の統合的なアイデアや志を前進させるのに役立つかどうか、確かめていただきたい。

私の知っている教授がかつて、よい理論とは「よりよいものが得られるまでは持ちこたえられるもの」と定義したことがある。

「万物の理論」についても同じことが言える。

――『万物の理論』ケン・ウィルバー (著), 岡野 守也 (翻訳)

コハ
コハ

つまり、「インテグラル理論」が絶対に正しいとか、間違いないとか、これで全部が紐解けるだー! って言う姿勢は誤りであるというか……ケン・ウィルバー氏が望んでいる方向性に対して的外れな方向ということだと、自分は認識しています。

あくまで試みや提案で、より改善してほしいし、あなたにも確かめてほしいと述べています。こういう姿勢に、自分は安心しましたし、とても好感を覚えました。

そもそも、“万物の理論”は、いったい何を求めて生まれたの?

得られるメリットとして、著書からはこんな表現が出てきます。

統合的なヴィジョンは、私たちの仕事や生活や運命をより全体的で、より断片的でないものにしてくれるのだ。

――『万物の理論』ケン・ウィルバー (著), 岡野 守也 (翻訳)

そういえばまず、どうして統合的な、包括的な、全体的な、これまでにない「理論」が必要なのでしょう??

“境界”が、あらゆる問題を生み出し、わたしたちを不幸にするから

ケン自身の表現だと、インテグラル理論のなかでは、こんな効用が述べられています。

「万物の理論」(中略)を大まかに把握すると、何が効果のある統合的実践になるかが具体的にわかってきて(中略)より包括的なアプローチができるようになるだろう

――『万物の理論』ケン・ウィルバー (著), 岡野 守也 (翻訳)

何が効果のある実践になるかがわかって、より包括的なアプローチができるようになる……。うん、いい感じがするけれど、ちょっとボヤッとしてますよね。

コハ
コハ

わたしが思うに、こういう理由じゃないかと認識しています。

ここから、彼の書籍ではかなり前の部類になる、1979年に出た『無境界 自己成長のセラピー論』に移ります。

日本語訳版は1986年、翻訳は前記事で触れた吉福伸逸氏によるものです。

タイトルに「セラピー論」がついていますとおり、万物ではなく、セラピーや自我、トランスパーソナルについて語られています。

われわれは自ら(中略)相争うような分裂をつくりだす

このような暴力がまねく結果は、さまざまなことばで語られるが、要するに不幸そのものである。人生が、戦いに明け暮れる苦しみと化すのだ。

だが、われわれの体験におけるこれらの戦い――葛藤、不安、苦しみ、苦悩――は、われわれが勝手にでっちあげる諸々の境界によって生み出されるものである。

――『無境界: 自己成長のセラピー論』ケン・ウィルバー (著), 吉福 伸逸 (翻訳)

この記事を読んでくださるようなあなたなら、自我エゴ」とか「セルフ」といった心理学の専門用語であったり、そこから「投影のメカニズム」「シャドウといった世界観に触れたことがあるかもしれません。

コハ
コハ

きらいでしょうがない人、許せないような言動をする人。あるいは腹立たしい出来事、我を忘れてしまうほど感情的になってしまうトラブルなどは、実は相手のせいで起きているのではないというやつですね。

どの人も、それぞれの形で自分のなかにある、許せないし許されないから見ないようにしている「シャドウ」がある。その罪悪感や劣等感のカタマリみたいな自分抑圧していればいるほど、刺激されたときに衝動的に反応してしまう……という。

コハ
コハ

具体例を挙げるとしたら、例えば「男に媚びを売る女性が許せない!」という人がいますよね。あるいは「泣いて謝ったフリは過度なのに何も省みないあの人、ほんとムカつく」という人。もしくは「いつも要領が悪くてオドオドしてるやつをみると、無性にイライラする」という人。「相手の気持ちも考えないで、思うことをズケズケ言う人のことが信じられない!」といった感じでしょうか。いくらでも、いろんな抑圧があります。

同じような人がいても、別に気にならないし「そういう人もいるよねー」というトーンで、心が波打つこともなく、ムリしているわけでもなく、ただ受け止められる・受容できる人もいます。それぞれ、「シャドウ」の自分によるのですね。

さまざまな理由で、人は魂の特定の局面を自らのもの・・・・・として認めることを拒絶するようになる

心理学用語を使うなら、それらを疎外、抑圧、分断、投影するのだ。

(中略)魂の特定の局面だけにアイデンティティをもつようになってくると、残りの部分を異質な領域、相容れない恐ろしい非自己と感じるようになる

そして、魂の地図を作りなおし、自分自身の好ましくない局面(これらの好ましくない局面は「影」と呼ばれる)を意識から追い出し、否定しようとする。程度の差こそあれ、「正気を失う」のだ。

これが(中略)境界線であることは明らかである。

――『無境界: 自己成長のセラピー論』ケン・ウィルバー (著), 吉福 伸逸 (翻訳)

具体例があった方が分かりやすいと思うので、また現代の事例にしてみます。

例えばコロナワクチンの接種推進派と、否定派にしてみましょう。

賛成派 反対派
正気 自分の意志で接種します。 自分の意志で接種しません、
接種しない人は人殺しだ! 接種強制は人殺しだ!

シャドウ」から反応して選択している人たちは、自分と異なる選択をした人に対して相容れない恐ろしい非自己と感じているのでしたよね。

だから、正気じゃない決めつけの(自分が想像し、許せない非自己が投影された)言動になってしまう。ここには力強い分断を行う、ワクチンの是非を問う「境界」が誕生しています。

ここで先に述べた引用をもう一度、引っ張ってきます。

われわれは自ら(中略)相争うような分裂をつくりだす

このような暴力がまねく結果は、さまざまなことばで語られるが、要するに不幸そのものである。人生が、戦いに明け暮れる苦しみと化すのだ。

だが、われわれの体験におけるこれらの戦い――葛藤、不安、苦しみ、苦悩――は、われわれが勝手にでっちあげる諸々の境界によって生み出されるものである。

――『無境界: 自己成長のセラピー論』ケン・ウィルバー (著), 吉福 伸逸 (翻訳)

コハ
コハ

ここで、その境界を無くしたら――無境界にしたら、つまり統合してみたら、どうなるのでしょうか?

それぞれの人に伺ってみないと答えは分かりませんが、

接種したい人も、接種したくない人も、正気の人も、投影している人も、みんなで共通しているものは何か。例えばこんなのはどうでしょう。

賛成派 反対派
正気 健康でいたい 健康でいたい
健康でいたい 健康でいたい

自分も、大切な人も、世界中の人に対して「健康でいてほしい」

「COVID-19 に感染しないでほしい」
「感染したとしても軽く済んでほしい」
「もうこれ以上、苦しんで死ぬ人が増えてほしくない」……こうした思いは一致するのではないかと思います。

コハ
コハ

言い換えると、この感染症によって苦しい思いをしたくない、健康を害されたくない、死にたくないというのは一致しているはずです。でも否定的な表現だと落ちるので、健全な方向へ言葉にしました。

よく出てくる言い合いのときは無限に境界が存在しています。

「ワクチンは素晴らしい発明品だ」「過去の疫病もワクチンが駆逐してきた」「ワクチン後遺症? それよりも、ただちに多くの人を救うべきだ」
「情報統制をして、何も知らない国民に強いるなんて卑怯だ」「実験に使われている」「日本はいつも海外が忌避した薬品を大量に買わされ、いい金づる」

こうしたシャドウ側の視点で互いに情報を集めてきて、議論バトルしても、境界は厚く強まるばかりです。

ますます相手が悪くて、怖くて、バカで、わからず屋で、感情的な、退化した人間に映ります。

ワクチンの是非という視点で見た時、確かにそこに断絶はあるのですが、そもそもの目的に立ち返ったとき、人は無境界にあるのではないでしょうか

「自分や、大切な人たちに健康でいてほしい」
「COVID-19 に感染しないでほしい」「感染したとしても軽く済んでほしい」
「もうこれ以上、苦しんで死ぬ人が増えてほしくない」
「真実が分からないことが不安だ、間違った選択をすることが恐怖だ」

そのために、自分と違う視点を持つ人や、自分と違うポジションから世界を観る人や、自分と違う情報へタッチしている人と交流し、お互いの正気を高め合おうとするコミュニケーションが出来たなら、

間違いなく多くの混乱や諍いや暴力や不幸は減るはずだと、わたしは信じます。


コロナワクチンの話まで風呂敷を広げずとも、いま、目の前にある問題やトラブルに対してのアプローチを探すとき、わたしたちは渦に巻き込まれて困惑します。

これを食べろという。かたや、これは食べてはならないというように。

現在、これらの葛藤や戦いを克服するために、どこに助力や指導を仰ぐべきかという問題に関して大きな混乱が起きている。

第一に、膨大な種類のアプローチがある(中略)そのうえ、これらのさまざまな思想の大半は一見、互いに矛盾しあっているように見える

苦しみの原因の診断が異なるばかりか、それを軽減する方法もまた異なっている(中略)このような多種多様な見方のなかから、わたしは全体を展望する一つの総合化を試みた。

――『無境界: 自己成長のセラピー論』ケン・ウィルバー (著), 吉福 伸逸 (翻訳)

だから、そうしたときに「インテグラル理論」だぜと。

「万物の理論」(中略)を大まかに把握すると、何が効果のある統合的実践になるかが具体的にわかってきて(中略)より包括的なアプローチができるようになるだろう

――『万物の理論』ケン・ウィルバー (著), 岡野 守也 (翻訳)

いかがでしょう、まさか記事を書く前は聖徳太子とかワクチンまで引っ張ってくることになるとは思いもしなかったのですが😅

ここまで読んでくださったあなたに、何か響き届いていたら嬉しいです!

コハ
コハ

次の記事から、具体的な「インテグラル理論」の中身に入っていきたいと思います! やっとだー!!

ケン・ウィルバーが書いた「インテグラル理論」でわたしにぶっ刺さったもの3選

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進化は「超えて含む」もの。前の段階にあるものや人や意識 etc…を「否定する」のは進化ではない

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感受性が高く人のきずなを重要視する、地球環境に思いを寄せる「グリーン」が持つ「ナルシシズム」の着眼、進化を妨げているという強い批判。

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意識の発達のメカニズム。プレ・慣習的コンヴェンショナル慣習的コンヴェンショナルポスト・慣習的コンヴェンショナル……同じ意識層にいたとしても、3つの段階があること。

コハ
コハ

1つずつ、掘り下げてご紹介していきます。読んでくださっている方も、ハッとしたり腑に落ちる点があるのではないかと思います!

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